ワルナワルニの時間です。今日は、PANCASILAの誕生日についてお伝えします。この放送は、www.voinews.idで聞くことができます。
実は、Pancasilaの誕生は、1945年6月1日のインドネシアの独立のための準備委員会の会議でのインドネシアの初代大統領、ブンカルノのスピーチのタイトルでした。彼の演説では、ブンカルノは、インドネシアの国家の基礎の構想について伝えました。この演説では、独立したインドネシアの国の基礎としてPancasilaの最初の概念と明確な記述が、ブンカルノによって初めて提案されました。この演説は、もともとタイトルなしで満場一致で、ブンカルノによって発表されました。そして、後にインドネシアの独立のための準備調査機関(BPUPKI)によって出版されることとなるピーチを含む本の序文で、BPUPKI元会長のRadjiman Widyodiningrat博士によって「Pancasilaの誕生」という呼称がつけられました。1947年に初めて発表されたこのスピーチの本の序文で、Radjiman Widyodiningrat博士は、ブンカルノの演説は、「Pancasilaの誕生を含んでいたと述べました。2017年から、この日が正式に国民の祝日となりました。
政府は、国の全構成員とインドネシアの国民とともに、Pancasilaの誕生日に関する2016年24号の大統領令に基づいて、毎年6月1日にPancasilaの誕生日を記念しています。Pancasilaという言葉は、1945年6月1日の演説でブンカルノによって初めてが紹介されました。しかし、1945年6月22日に、ジャカルタ憲章となり、1945年8月18日には、Pancasilaを確定した憲法が、成立するといった、後のプロセスが、まだありました。
この大統領令では、1945年5月29日から6月1日まで行われたBPUPKIのPancasilaの誕生日の決定のことが、説明されています。その当時、ムハンマドヤミン, スポモ, ブンカルノなど、国家の基盤に関係した3人の人物がいました。1945年6月22日のブンカルノの演説でPancasilaの策定、1945年6月22日にジャカルタ憲章策定、1945年8月18日の最終策定までが、国家の基礎としてのPancasilaの誕生の一連のプロセスなのです。
当時のブンカルノが伝えた策定は、今日我々が、知っているPancasilaの順序とは異なっていました。その後、 BPUPKIのメンバーは、独立したインドネシアの基礎についての質疑に答えたブンカルノの演説に合意しました。その後、9名からなるインドネシア独立準備委員会(PPKI)が結成され、その活動の中で、ジャカルタ憲章を策定する機会を得ます。しかし、その後、ジャカルタ憲章の内容は、インドネシア東部の市民の代表によって拒否されました。そのため、1945年8月18日、インドネシア共和国憲章の前文に記載されているように、今日我々が、知っているPancasilaが定められました。
これで、ワルナワルニを終わります。